鴨居 玲(かもい れい)

「人間」を描いた鴨居玲

鴨居 玲は、1928年2月3日に石川県金沢市で生まれた画家です。
主に人間や社会の闇を描いています。鴨居の絵は非常に強烈なものばかりであり、絵を見た者は一瞬で鴨居の存在を記憶します。

金沢美術工芸大学洋画科在学中の1948年に、第2回二紀会『青いリボン』で初入選、翌年に金沢美術工芸大学洋画科を卒業。同年第3回二紀会で褒賞を受賞、同会同人に推薦されました。
さらに1954年の第8回同展で『空気の層』『あるく』を出品、同人努力賞を受賞しています。

1957年頃、鴨居は油彩画に行き詰まりを感じ、パステルやグワッシュで制作していました。
そして翌年にパステル画を二紀会第12回展に出品し、同人賞を受けます。
1959年に渡欧。パリで遺作の整理に当たった金山 康喜(かなやま やすき)の作品に、強い感銘を受けました。

1968年に初めて個展を開き、下着デザイナーの姉・鴨居羊子を通じて知り合った小説家・司馬 ?太郎(しば りょうたろう)と親交をもちます。
同年、二紀会会員に推挙され、翌年1969年に『静止した刻』で第12回安井賞と、昭和会優秀賞を受賞。そして、1970年より1977年までスペイン、フランスに滞在しています。

1984年には、金沢美術工芸大学の非常勤講師を務めます。しかしその翌年の1985年、持病の心臓の病と、創作への行き詰まりを理由に、神戸市の自宅で排ガスにより自らの命を絶ちました。それまでに何度も自殺未遂を繰り返していた鴨居が、ようやく得た安堵だったのでしょうか。

不幸の渦中が生む作品

鴨居は小さい頃からきゃしゃで、活発な姉と対照的に泣き虫でした。そんな鴨居にとって絵の世界こそが、自分を表現できる場所であったようです。

美術学校を卒業後、就職するも釈然としない何かを感じた鴨居は、画業で身を立てようと田中千代服装学園にて講師としての職を得ました。

常に胸が張り裂けそうな想いに囚われていた鴨居は、しばしば自殺願望を口にしていたらしく、いつもどこかに悲愴感を抱いていたようです。

何度となく繰り返される自殺未遂は、不幸の中でこそ自分の望む絵が描けるという、彼の画家としての究極の手法であったのかもしれません。

晩年の鴨居は、自画像を多く制作していました。
『しゃべる』『肖像』のような絵はすべて自画像だといいます。
絵の登場人物のすべては、彼の心の鏡として表れているにすぎなかったのでしょう。

下書きは彼がイメージをその中に完成させるときまで、数か月放置されていることが多かったといいます。そして、イメージが出来上がり絵を仕上げるときには、全身にエネルギーがほとばしり、あらゆる狂気に満ちた姿であったに違いありません。その姿が、彼が描いた絵の中に二度と忘れられない強烈さとして、表れているようにも思えます。