二世 五姓田 芳柳(にせい ごせだ ほうりゅう)

幅広い画業において和洋折衷を取り入れた画家、二世 五姓田芳柳

若くして結婚した時期

二世 五姓田芳柳は、1864年8月7日に下総の国(現在の茨城県)で大工の六男として誕生しました。本名は子之吉といい、子供の頃から絵を描くのが大好きで、一日中写生していたこともよくあったそうです。
1878年には上京して、五姓田芳柳の次男・五姓田義松の行っていた画塾に入ります。また工部美術学校の外国人雇われ教師であった、アントニオ・フォンタネージに師事しています。1880年15歳の時に初代の五姓田芳柳の次女と結婚し、婿養子となります。

いろいろな絵画の手法を学んだ時期

1881年からは、師である五姓田義松が長年師事していた画家であり、漫画家のチャールズ・ワーグマンから絵の指導を受けるようになります。また正規には入学していませんが、工部美術学校の教師のサンジョバンニやカペレッティからは、油彩画と遠近法なども習得したようです。
1884年には初代 五姓田芳柳とともに新潟県立新潟学校に行き、1年ほど図画教師として勤めています。教師を辞めて帰郷した後に、芳柳の号を受け継ぎその時から、二世 五姓田芳柳を名乗るようになりました。この頃20歳という若さですが、すでに水彩画を描き、その道では第一人者とも言える存在になっていたようです。

パノラマやジオラマに力を入れた時期

1889年には明治美術会の立ち上げに協力して、創立会員となります。1890年の第3回博覧会では2つの作品を出品し、褒状を受けています。初代・五姓田芳柳の影響もあり、円環状の壁に風景画を描いて中央に人が立つようになっている、パノラマ画やジオラマも作り始めるようになりました。
1900年のパリの万博にも作品を出品して、褒状を受けました。1901年には北京や天津を訪れて、北清事変の場面のパノラマ画を作成に力を入れています。1902年に川村 清雄(かわむら きよお)と石原 白道(いしはら はくどう)と一緒に、巴会を結成しました。
1910年の日英博覧会では、わざわざイギリスまで行き「日本古代より現代に至る風俗変還図」のジオラマを作成して、名誉賞状を受けています。

歴史風俗画を多く描いた時期

1917年に明治神宮奉賛会の嘱託となって、史実にのっとった画題考証図と呼ばれる聖徳記念絵画館の壁画下絵80題を作成しています。また日本赤十字社の特別社員にもなっていて、1926年のフィラデルフィア万博には「関東大震災赤十字社救護活動図」を出品しています。そして1931年には、上野公園にある美術協会で350点にものぼる作品を展示する個展を開いた後、引退しています。またこの際、先代の霊前で芳柳の号を返還しています。
1943年1月9日に、淀橋区戸塚(現在の新宿区)にて逝去しました。享年80でした。