黒田 清輝(くろだ せいき)

多くの西洋画家を育てた画家、黒田清輝

父の意向で法律家を目指した時期

黒田清輝は、1866年6月29日に薩摩藩士である父・黒田清兼と母・八重子の長男として、鹿児島市高見馬場(たかみばば)で生まれました。生まれた時は新太郎と命名されましたが、その後は清光、そして清輝と改名しました。
誕生前からの取り決めで、1871年に父・清兼の兄である清綱の養子になります。そして翌年には上京し、平河小学校に入学、小学校卒業後は二松學舎に入学します。義父である清綱は、鳥羽伏見の戦いで際立った活躍をしたため、明治維新後には東京府大参事や元老院議官を歴任し1887年に子爵の爵位を授けられました。そのような養父のもとで育った清輝は、不自由のないめぐまれた環境で生活していたことがうかがえます。

法律家を目指していた清輝は、英語やフランス語を学び、17歳の時に外国語学校のフランス語科2年に編入しました。フランス語を勉強したのは、その当時政府がフランスの法律を手本に民法などを法制化しようとしていたためで、法律を勉強する場合はフランス語が必須であったことが理由のようです。
そして1884年に義兄である橋口直右衛門が、フランス公使館に赴任が決まったこともあって、そこに同行することになります。

画家になる決意をした時期

フランスにいる間に、画家の山本 芳翠(やまもと ほうすい)や藤 雅三(ふじ まさぞう)、そして美術商の林 忠正(はやし ただまさ)などと交流する機会があり、その時に黒田は画家になることを勧められたようです。
義父が画家になることに反対していたため、少しの間は法学と絵画の勉強の二足のわらじを履いていましたが、1887年に法律大学校を退学し絵画に専心することに決めました。本格的に画家になることを決めた清輝は、その当時新進の画家として人気が高かったラファエル・コランに師事します。

1890年スケッチ旅行をしている時にパリの東南にある村グレー・シュル・ロワンを訪れ、村の美しさはもちろん、そこで知り合ったマリア・ビヨーがモデルにぴったりということで移り住んで絵を描きます。マリアは恋人であったとも言われていて、彼女をモデルに描いた『読書』は1891年、フランス美術展にて入選しています。

画家育成に力を注いだ時期

1893年、9年間過ごしたフランスを後に、日本に帰国します。その翌年、当時とても閉鎖的とも言える美術界を変えようと、ヨーロッパで学んだ教育方法を取り入れた西洋画を教える塾を開くことにします。
それまでの日本の洋画といいますと、暗い色目の多い画風が主流だったようですが、黒田は印象派などでも使われている光を存分に取り入れた明るい色を多用し、日本の洋画に新しい風をもたらしました。

1896年には東京美術学校に西洋画科が創立され、そこで教鞭をとることになります。1897年『湖畔』を発表、後にモデルであった照子と結婚しています。1898年に東京美術学校の教授となり、1900年のパリ万博では『智・感・情』と『湖畔』の二つを出品、銀賞を受けています。
『智・感・情』は3人の裸婦像を描いたものでしたが、当時の日本では、まだ「裸婦像」が美術として理解されていませんでした。しかし、黒田は批判に負けず出典し続けました。1901年に第6回白馬会展では出品した『裸体婦人像』は、展示している絵の下半身を布で覆って展示されるという事態となり、これは「腰巻事件」と呼ばれています。

1920年貴族院議員に、そして1922年には帝国美術院院長といった大役を任され、後年は画家というよりは、美術に関係した外交や画家育成のための教育行政などに深く携わっていました。1924年7月15日、尿毒症により死去しています。58歳でした。