つらいアメリカ時代
国吉康雄は、1889年9月1日に岡山県岡山市で、父・宇吉と母・以登の長男として生まれました。地元の弘西小学校と内山高等小学校を卒業した後は、岡山県立工業学校染料科に入学します。
しかし1906年に同校を退学して、英語を学ぶためにカナダのバンクーバーを経てアメリカに行きます。
シアトルから始まったアメリカでの生活は、つらいことの連続だったようです。鉄道掃除人、ボーイ、運搬夫などの仕事をこなしながら英語を勉強していましたが、その当時英語ができなかった国吉にとって、絵というのは唯一自分の気持ちを伝える手段だったようです。
その後、ロサンゼルス美術図案学校に入学、3年間勉強します。そしてニューヨークへと移り、ナショナル・アカデミー・スクール、インデペンデント・スクールやアート・スチューデント・リーグなど、複数の学校で学びます。
才能を見込まれた時期
そして特に1916年に入学したアート・スチューデント・リーグでは、ケネス・ヘイス・ミラーという画家が国吉の才能に目をつけ、その力を上手に伸ばす手助けをしています。その甲斐あって翌年の秋からは、アート・スチューデント・リーグでの奨学金を得て、授業料免除になりました。
また在学中に前衛画家の集まりであるペンギンクラブの展示会に出品し、そこで幸運にも資産家のハミルトン・イースター・フィールドにその才能を見込まれ、生活の面倒はもちろん精神的にも多大なる援助を受けました。
1918年にはアート・スチューデント・リーグの同級生、キャサリン・シュミットと結婚、生活のために、商業写真家として働きだします。1920年にリーグを退学しますが、商業写真家を続けながら、絵を描き続けていました。
1922年、国吉はニューヨークのダニエル画廊にて、初めての個展を開きます。その後10年間、国吉はこの画廊を自身の作品を発表する場としていました。1925年にはジュール・パスキンに誘われ、夫婦2人で訪れたパリに10か月ほど滞在した後、ニューヨークに戻ります。しかし、その後スランプに陥り、そのスランプから抜け出すために、パリに永住することを決め、1928年再び渡欧します。パリではリトグラフを中心に制作しますが、結局翌年にはニューヨークに戻ってしまいます。このときに交流したピカソやモーリス・ユトリロらから、写実的な制作方法の影響を受けました。
アメリカの画家として地位を確立した時期
1929年、ニューヨーク近代美術館の「現存アメリカ19人展」に選ばれたことで、アメリカの画家という地位をしっかりと確立しました。2年後、父親の見舞いのために日本に帰国した1931年、日本にて個展を開きますがあまり評判は良くなかったようです。この後、国吉が日本に戻ることはありませんでした。1932年に日本から帰国後、キャサリンと離婚。翌1933年、母校であるアート・スチューデント・リーグで教師として働き出します。国吉はその後20年の間、教職を続けました。
この間も積極的に創作活動をしていて、数多くの展覧会に出品し、テンプル・ゴールド・メダル、J・ヘンリーシャイト記念賞などを始め、いろいろな賞を受けています。
また1948年にルック誌が選ぶ現代アメリカの10人の画家にも選ばれ、シンシナティ美術館の「アン・アメリカン・ショー」という企画で、ほかのアメリカ人画家とともにアメリカ各地を回ります。
日本人でありながら、アメリカの画家として認められていた国吉ですが、法改正によりようやくアメリカ市民権を取得することができるようになった1953年、その夢を叶えることなく胃がんのため逝去しました。63歳でした。