抽象絵画を追求した吉原治良|美術界で前衛画家としての地位を確立

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吉原治良は、魅力的な抽象絵画とともに前衛的な活動で広く知られる洋画家です。中学生の頃には画業への思いがあり、晩年には円の描写に強くこだわりました。今回は、吉原治良の前衛画家としての活動や抽象絵画の特徴などについてご紹介します。

中学生の頃に芽生える画業への思い

大阪府大阪市にある吉原治良の生家は、もともと三代にわたり営まれていた老舗の油問屋でした。1905年、吉原治良は歴史ある家柄に生まれます。中学生の頃には画業への強い思いを抱き、独学で油彩画を学んでいました。

当時、特に影響を受けたといわれる作品はルノアールの絵セザンヌの「廃屋」ゴッホの「ひまわり」です。関西学院高等商業部に進学すると、神戸学生美術展に出品するなど積極的に作家活動を展開します。

家業を継ぐため一度は画業を断念すると決めますが、画家になる思いは枯れず、1928年に大阪の朝日会館にて個展を開催。魚を描いた作品のみで構成し、注目を集めました。個展が注目を集めたことが画家としての自信となり、藤田嗣治のもとを訪問。しかし藤田から「他の画家の影響がありすぎる」と酷評受けます。この藤田嗣治の酷評を受け、のちの吉原のモットーが「人のまねはするな」になったのは言うまでもないでしょう。その後、は父のは家業の製油会社に勤務しながら絵画制作を続けます。個展の出品作は魚を描いた絵で占められ、注目を集めました。

前衛画家として地位を確立

吉原治良は抽象的な作風の絵を描くとともに現代美術の運動を積極的に展開し、前衛画家としての地位を確立しました。

家業と並行しに関わりつつ画業を手がけていた頃、吉原治良は洋画家の上山二郎に強く影響されます。フランス帰りだった上山に当時の名だたる画家を紹介され、親交を深めるなか二科展への出品を開始しました。

1938年には二科会に設立された前衛的な九室会に参加し、戦後は国際展や海外展で活躍します。54年に吉原が中心となり周りには阪神在住関西の若い画家17名でが集まり、一緒に具体美術協会を創設。展覧会を定期開催するほか、機関紙「具体」を創刊するなど、すると現代美術の運動を開始しました。

戦前は幾何学的な抽象絵画を描く傾向が見られ、戦後も再び抽象的な作風が大きな特徴になっていきます。吉原治良の作風や美術界で展開した多くの活動は、前衛画家としての地位の確立につながりました。

色濃くなる抽象的な表現

吉原治良は戦前から抽象画といえる作品が多く、さらに戦後は抽象的な表現が色濃くなっていきます。

戦前、初期によく描かれた幾何学的な絵画の作風は、デ・キリコやモンドリアンの影響が見られました。戦後は一時的にシュールレアリスムの特徴を取り入れますが、次第に荒々しい筆致の作風に変わります。

さらにマチエール作品の影響から油絵具が大きく隆起するほどの表現を経ると、その後は円を丁寧に描き始めますがもつ大きな特徴は、単純な形のなかに表現された厳しい緊張感と豊かな広がりです。

晩年は、円をテーマとした連作で注目されます。吉原治良の洋画はいずれも抽象的な作風が魅力的であり、作品の買取でも評価は高くなる可能性があります。吉原治良は人気も高いことから買取市場でも高価取引されています。「なんぼや」では最新の相場を使って永楽の焼物をしっかりと査定し。高値での買取を行っています。まずはお気軽にお問い合わせください。

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