日本近代洋画の父・黒田清輝が日本美術史に与えた多大な影響とは

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黒田清輝(くろだせいき)は明治時代に活躍した西洋画家です。フランスから持ち帰った西洋画の作風を提唱し、「日本近代洋画の父」と呼ばれました。今回は、日本の美術史に多大な影響を与えた画家、黒田清輝についてご紹介します。

法律学生から転向して画家へ

黒田清輝は、1866年に薩摩国鹿児島城下東千石馬場町(現・鹿児島県鹿児島市東千石町)で、薩摩藩士・黒田清兼の長男として生まれました。その後は叔父の子爵・黒田清綱の養子になり、1872年に上京。麹町平河町の清綱邸は7000坪ほどあり、清輝は少年時代を経済的にも物質的にも恵まれた環境で過ごします。

10代になると法律を学ぶためにフランス語を学び、1884年、フランス公使館に赴任することになった義兄に同行する形でフランス・パリへ留学します。1886年、日本公使館でパリ在住の日本人の集まりに出席し、清輝の人生を変える出会いを果たしました。その場で清輝が趣味でスケッチしていた絵を見た画家の山本芳翠、藤雅三、美術商の林忠正らは、しきりに清輝に画家になるようすすめたのです。

法律家になるか画家になるかで悩んだ清輝でしたが、決心して画家を志し、フランス人の画家ラファエル・コランに師事しました。1891年「読書」、1893年「朝妝」という作品が、フランスのサロンで入賞しています。

白馬会を結成し日本洋画界をけん引

1893年、10年ぶりに帰国した黒田清輝は、美術教育者として活躍しました。印象派の影響を受けた外光派という作風を確立させ、国内に提唱します。しかし、パリのサロンで入選した女性裸体画「朝妝」を巡っては、社会問題に発展するほどの論争となりました。フランスでは芸術として受け入れられていた裸体画は、当時の日本ではわいせつ物扱いだったのです。

このようなことを受け、1896年、清輝は規則に縛られた明治美術会から独立し、白馬会を結成します。白馬会は1911年に解散するまでほぼ毎年展覧会を開催し、藤島武二や青木繁などの才能を発掘してきました。白馬会は、明治の洋画界をけん引する存在であったといえます。また、同年に東京美術学校に西洋画科が発足すると、教員となって日本洋画界に多大な影響を与えたのです。

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