鼈甲(べっこう)装身具(アクセサリー)

鼈甲の髪飾りは、日本女性の髪型とともに発展した独特の骨董品

鼈甲装身具といえば、その中心は髪飾りとなります。
江戸時代に定まった日本式結髪とともに生まれた髪飾りの素材として、鼈甲は初めから人気がありました。
江戸期の女性は身分の上下を問わず、鼈甲の櫛(くし)や笄(こうがい)、簪(かんざし)を求めたのです。
もともとはすっぽんの甲羅を意味した鼈甲という名が根付いてしまったわけも、鼈甲髪飾りの人気ゆえでした。
それゆえに鼈甲でできた江戸期の装身具は、歴史的にも美術工芸品としても非常に価値がある骨董品となっています。

鼈甲装身具(アクセサリー)とは

鼈甲装身具とは、ウミガメの一種である玳瑁(タイマイ)の甲羅を原材料としたアクセサリーのことです。

鼈甲は琥珀のような飴色と透明感に加え、褐色もしくは黒の独特の模様が入った、大変美しい素材です。
また、柔らかさゆえに加工しやすく、熱を加えると簡単に曲げることができる点からも、工芸品の材料として高く評価されています。

日本では特に櫛(くし)、笄(こうがい)、簪(かんざし)といった髪飾りの素材として重宝されてきました。また高級メガネの枠としても扱われています。

そのほかにもペンダント、ブレスレット、イヤリング、カフリンクスなどジュエリー素材として、帯留めや煙草入れ、茶杓(ちゃしゃく)といった伝統工芸品の材料としても珍重されています。

そんな鼈甲は、現在ワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)によって国際取引が禁止されています。
また、国内で取引が許されている素材としての鼈甲は、財団法人自然環境研究センターに登録し、登録票の交付を受けたもののみです。

このように材料が限られている鼈甲製品は、今後ますます少なくなることでしょう。
その意味でも骨董品の鼈甲装身具は貴重であり、さらに価値が高まっていくものと思われます。

鼈甲装身具の歴史

日本の鼈甲装身具は主に髪飾りであり、髪型の歴史とともに発達し衰退していきました。

ここでは日本独特の髪飾りでもある櫛、笄、簪に注目し、髪型の変化と髪飾りの関係について、簡単にご案内していきます。

古代から珍重された高級素材

鼈甲を使った工芸品は、少なくとも紀元前にはすでに制作されていたことが分かっています。中国の前漢時代(紀元前206から8年)の遺跡から、鼈甲の櫛が発見されているのです。

その後、6世紀から8世紀にかけての中国王朝、隋(ずい)や唐の時代には、盛んに鼈甲細工が生産されました。
唐王朝時代では、鼈甲を用いた工芸品は贅沢品として禁令を下している事例すらあります。それほどまでに重宝されていたということでしょう。

この中国で発達した鼈甲細工が遣隋使、遣唐使によって持ち込まれたことが、日本における鼈甲の歴史の始まりです。
しかし本場中国でも贅沢品として禁令が出るほど希少な素材である鼈甲は、日本においては国宝級の貴重品であり、当然一般民衆が装身具として使えるものではありませんでした。

このような貴重な鼈甲が装身具として普及しだしたのは、江戸時代になってからです。

鼈甲と細工技法の輸入

1603年(慶長8年)に編さんされた日本語をポルトガル語に翻訳する宣教師用の辞書「」によると、鼈甲(タイマイ)は「中国人がいろいろな物や細工物を作る亀の甲」というように紹介されています。
この時代では鼈甲は「中国人が用いる工芸品の素材」であって、日本では使われていなかったようです。しかし辞書のなかに鼈甲の項目があるのですから、日本人の鼈甲への興味が高かったことが読み取れます。

実はこのポルトガルとの交流が、鼈甲細工の発展に重要な意味がありました。
中国で発達した鼈甲細工の技術は16世紀にポルトガルに伝わり、そのポルトガル人が来日することで日本にも入ってきたのです。
また、鼈甲のもととなるタイマイは日本近海には生息していません。このことが、過去において鼈甲を国宝級の貴重品とした理由の1つです。

しかし、江戸時代に設立された長崎の出島を通して中国などから輸入され、鼈甲が国内に流通するようになりました。
つまり、鼈甲は江戸初期になって初めて、素材と技術がともに日本に入るようになったのです。現在においても長崎で鼈甲細工が盛んなわけは、当時長崎のみが外交の窓口だったことに由来します。

そして、時を同じくして日本国内で一気に花開いた装飾文化がありました。それが櫛や笄といった髪飾りです。
鼈甲は日本独特の髪飾りが生まれた時期に、絶妙のタイミングで輸入され始めた高級素材だったのです。
この後、鼈甲は髪飾りの発達とともに、日本の装飾文化や伝統工芸品の世界に根付いていくことになります。

江戸時代における髪飾りの発達

世界的に見ても独特の発達を遂げた日本の髪飾りは、1600年代中頃に始まったとみられています。
髪の髷(まげ)の結い方である結髪(けっぱつ)が様式として成立したのが1600年代中頃であり、その結髪を整え固定すると同時に、飾るために櫛や笄もまた発達していきました。
1600年代後半の頃の絵画には、すでに庶民の女性が飾り櫛を身に着けている姿が描かれており、一般民衆にも髪飾りの文化が普及していることが分かります。
鼈甲はこの頃から、櫛の素材として人気がありました。

1700年代に入りますと、飾り櫛には金や銀、蒔絵(まきえ)などが施され、華やかになります。鼈甲櫛も歯の上部にあたる棟幅が、広い大型のものが好まれたようです。
棟幅が広いということは、髪に挿したときに目に入る部分が大きいことを示しています。この頃には髪飾りは髪型を整え固定する役割だけでなく、装飾品としての意味が大きくなっていたのです。

笄もこの時代に生まれました。
笄は結髪する際に長い髪を絡ませて、髷を作る道具が始まりとされています。そのため当初はシンプルな直棒で、竹や角、象牙、鯨のヒレを使って作られました。この笄に装飾がつけられるようになり、簪へと移行してきます。

タイマイの甲羅が鼈甲(すっぽんの甲羅)と呼ばれる理由

鼈甲は、髪飾りの素材として最も人気があった材料でした。しかし数が限られている原料で、価格が高騰していきます。ドラマでも有名な8代将軍吉宗公の頃(享保)になると、10年ほど前の元禄時代には2両だった鼈甲櫛は5~7両にまで上がったといいます。

享保の改革で倹約令がしかれていた時代でもあり、1743年(寛保3年)には大型の鼈甲や金銀、蒔絵などが施された髪飾りに対して禁令が出ました。
ここで、興味深いことが起こります。ひとことでいえば、鼈甲という名称への変換です。

実は、鼈甲という名称はこの時代までは漢方薬でもある「すっぽんの甲羅」を指していました。髪飾りの材料は、玳瑁(たいまい)という本来の亀の名前で呼ばれていたのです。
禁令が出されて玳瑁の櫛を使うことができなくなったとき、人々は同じ「亀の甲羅」であることから玳瑁を鼈甲と呼び変えることで、禁制の網をくぐり抜けました。「すっぽんの甲羅(鼈甲)ですから贅沢品ではありません」と言い訳して玳瑁の髪飾りを作り購入したそうです。
ここから、玳瑁は鼈甲と呼ばれるようになり、現代にまで続いています。

江戸後期における簪の発展

笄は髪を絡めて留めるという、もともとの用途から形状的にシンプルでしたが、そこから派生した簪はさまざまな装飾が施され、江戸後期には大発展し髪飾りの主役となりました。

享保の頃から上に耳かき、下は髪かきがついている道具としての機能性がある簪が生まれ、徐々に多様化していきます。
この簪においても最も人気があるのは、やはり鼈甲でした。美しさだけでなく、適度な柔らかさが耳かき髪かきとしても好まれたのでしょう。

文化・文政の頃(1804-1830)になりますと、簪は道具としての機能性は失われ、華やかな装飾品として発達していきます。
両天簪や中差簪という笄として使われる簪が生まれるといった逆転現象も見られるほど、簪は髪飾りの主役と認識されるようになりました。

明治、大正の鼈甲装身具の変化

江戸期に発達した鼈甲アクセサリーは、明治以降も髪飾りの主役であり続けましたが、いくつかの変化が生まれます。

1つは、高価な鼈甲の代わりに、安価で外見が似ているセルロイドや卵白を使った卵甲(らんこう)といった代替品が普及し始めたこと。

もう1つは、鎖国が解かれ諸外国との輸出入が活発化するなかで、鼈甲細工にも従来の伝統的な装飾とは異なる、海外向けのデザインが増えてきたことです。

また、時代が下るにつれ、日本式の結髪は公的な場や結婚式など特別な場所に限られ、束髪という簡易的な結い方に変わります。この束髪の髪飾りの主流はリボンと簪でした。
そのため鼈甲を使った櫛や笄は高級品となり、フォーマルな髪飾りとしての人気こそ衰えないものの、徐々に日常では使われなくなります。特に笄は一般的には姿を消していきました。
髪飾りの不振とともに明治期から入り始めたイヤリングやネックレス、指輪といった西洋風のジュエリーやアクセサリーが、徐々に浸透していくことになります。

昭和以降の鼈甲装身具

昭和に入ると同時に髪型に大きな変化が生まれます。断髪した西洋風の髪型への移行です。
昭和初期の段階で断髪し帽子をかぶったモダンなスタイルが流行し、従来の髪飾りである櫛や笄、簪は必要とされなくなってきました。
特に戦後には、その傾向が決定的になります。
例として有名なのは、1954(昭和29)に大人気となった映画「ローマの休日」の影響でした。主演女優オードリー・ヘップバーンの髪型であったボブスタイルが大流行し、髪飾りよりもイヤリングに注目が集まります。

このように、戦後は日本式の結髪はほとんどなくなり、装身具の主流は完全に西洋風のジュエリーやアクセサリーに置き替わっていきます。同時に鼈甲装身具も用途が限定され、和装の髪飾りとして櫛や簪に用いられるようになりました。

鼈甲装身具の歴史のまとめ

鼈甲装身具は主に髪飾りが中心であり、その歴史は日本式の結髪の歴史とともにありました。
結髪が発達した江戸時代に最盛期を迎え、結い方が簡易化していくとともに完全に高級品として位置づけされ、一般的な装身具から離れていくことになります。
現在では、ワシントン条約で更に材料の確保が難しくなったこともあり、和装の高級髪飾りとして独特な位置付けで流通しています。

骨董価値のある鼈甲装身具の特徴、条件

前述した歴史のとおり、主な鼈甲装身具である櫛、笄、簪の最盛期は江戸時代です。

そして一般的な骨董品の定義として必要な時間経過は、製造されてからおよそ100年とされています。(関税定率法、別表関税率表第97類9706・00)

またアンティークジュエリーも参考にしますと、1930年代のアール・デコ時代のものも含まれることが多くあります。

これら基本情報を踏まえますと、骨董品として扱われる日本の鼈甲装身具は、戦前までに制作されたものといえるでしょう。特に江戸時代の髪飾りは希少品となります。

ここではおおまかな時代区分とともに、各時代の鼈甲装身具の特徴を説明いたします。

江戸初期(1600年中期~1700年前期)の鼈甲装身具

歴史でご紹介したとおり、鼈甲装身具は1600年代中期頃に髪結いの道具として生まれ、1700年代に入ると装飾品として華やかになっていきます。
この時代の主な鼈甲装身具は櫛と笄です。

江戸時代初期の櫛の特徴は、棟幅が広く薄いことです。
棟幅は櫛の上端から歯の始まりにいたるプレート部分のことを指し、髪に挿したときに目に見える部位です。ここが広いということは髪飾りとして目立ちますので、道具としての機能性よりも装身具としての装飾性を重視していることを表しています。

また、薄いのも特徴で約1.5mmしかありません。この時代にはまだ複数の鼈甲を張り合わせる技術がなく、一枚の鼈甲で制作していたからです。この一枚の鼈甲でできた櫛を、挽抜櫛と呼びます。

笄も装飾品としてよりも道具の意味合いが強く、非常にシンプルなデザインが多いことが特徴です。磨き上げた一本の棒にしか見えないようなものも多くあります。
この頃は笄と簪の境界線が曖昧でした。
簪はイチョウ型や団扇(うちわ)型の頭をした一本差しが主流でしたが、笄と呼ばれることが多くあったようです。

総じてこの時代の鼈甲装身具は、道具から装飾品への移行期にあり、道具の機能性が残っていることが分かります。

江戸時代中期(1700年代)の鼈甲装身具

江戸時代中期の鼈甲装身具の特徴は、飾り櫛の普及と簪の発達です。
飾り櫛とはその名のとおり装飾品としての櫛で、鼈甲のほかにも真鍮、ガラス、ツゲ、象牙といったさまざまな素材と、特徴をいかした装飾が施された櫛が生まれました。

鼈甲は特に人気で、前述のとおり、材料の少なさからかなり値段が高騰しています。そのため、擬甲という水牛の角や馬や牛の爪を使った模造品も多くなりました。
多くの飾り櫛が発達した影響もあり、鼈甲櫛も多様な形状の変化が見られます。

鼈甲櫛の種類

山高形(1716~41年頃。厚さ1.5mm、横幅10.5~13.5cm)

初期の鼈甲飾り櫛。親歯の幅が広く取られ、歯がかけにくくなっています。挽抜櫛で非常に薄いのが特徴です。

利休形(1748~64年頃。厚さ3~4.5mm、横幅15~21cm)

山高形を横に伸ばした形状で、横長櫛ともいいます。鼈甲を重ねて熱し、圧着する技法により厚みが増しました。

政子形(1764~81頃。厚み3~6mm、横幅13cm程度)

北条政子の櫛をモデルに作られたので鎌倉櫛ともいいます。丸みを帯びた半楕円形の櫛です。

光輪形(1764~81頃。厚み3~4.5mm、横幅16cm程度)

棟の部分に、花鳥風月などの模様を透かし彫りした鼈甲櫛です。尾形 光琳(おがた こうりん)の画風に似ていることから名がついたといわれています。

この時代の鼈甲櫛は、まだ薄いものが多くとても横幅があることが特徴といえます。

鼈甲笄の種類

笄もこの時期は、さまざまな変遷をたどっています。
江戸中期は享保や寛政の改革といった倹約を旨とする政策が取られていたため、各種禁令が発布されました。
表立って派手な装飾品を身につけられなかったせいか、シンプルな笄はかえって重宝されたようです。

1730~41年頃(厚さ1.5mm、長さ25cm程度)

髪に差し込みやすいように片側がやや細く、角に気持ち丸みがあります。

1748~64年頃(厚さ3mm、長さ33cm程度)

同じ時期に流行っていた利休形櫛と同じく、かなり長くなっています。
また長さ25cm程度で斜めにカットした楊枝型の笄が、この時期に流行りました。

1764~81年頃。(厚さ3~6mm、長さ25cm程度)

同時期の光輪形櫛と同じく、透かし彫りが施された笄です。櫛と笄はワンセットで意識されていたようで、櫛の流行りと笄のデザインはほぼ一致します。

また一本簪のように片端に耳かきがついた「しのぎ笄」、断面が円状の「丸棒笄」、筒を縦割りにしたような「樋形笄」もこの時代のものですが、現存物が少なく貴重です。

以上の他に、一枚鼈甲でできた35cmを超える長さの笄が、江戸中期を通して使われていました。

鼈甲簪の種類

このような櫛や笄とともに大きく発達したのが、簪です。
初めの簪は鼈甲でできた一本足で、笄との違いがほとんどありませんでした。それが1700年代に入ると耳かきと髪かきがついたり、二本足になるなど、笄と別の特徴を見せ始めます。
特に1700年代後半になると、さまざまな形状の簪が出まわるようになりました。

琴柱簪(ことじかんざし。1748~64年頃。前差し20cm、後ろ差し24~27cm)

簪の肩(耳かき部分を頭に見立てたときに、二本足に別れる外側のライン)が、琴の胴にたてて糸の張りを調節する道具である琴柱に似ているのでついた名称です。

松葉簪(1764~81年頃。前差し後ろ差し共に20cm程度)

簪の肩が松の葉のように、外に向かって反り返っているデザインです。1700年代初めに登場した初期の二本足簪でしたが、流行ったのは後期になってからでした。

紋入簪(1764~81年頃。前差し18~21cm、後ろ差し24~27cm

鏡(二足の付け根の広いプレート部分)に、歌舞伎役者や好きな男の家紋を彫った簪です。

石持簪(こくもちかんざし。1770~1804年頃)

鏡が無地の円形デザインになっている簪です。
上記の耳かきつき二本足簪の他にも、T字型の一本足簪「撞木簪(しゅもくかんざし)」「艪櫂簪(ろかいかんざし)」が1764~81年頃に流行りました。

江戸後期(1700年代末~1800年代中期)の鼈甲装身具

江戸後期は町民文化が円熟した時代で、鼈甲装身具も全盛期を迎えました。

女性が茶や華、芝居といった場に出かけることが多くなり、同時に身を飾る装飾品はさらに華やかに発達したようです。
この時代の鼈甲装身具全体にいえる特徴は、飴色の地に黒い斑模様が入っている鼈甲から、白甲と呼ばれる白っぽい飴色単色ものへと、カラーの主流が変わってきた点でしょう。

またさらに厚みが増し、櫛は1cm前後のものも珍しくなくなります。
禁令が厳しくなり、幅の大きな髪飾りが許されなくなりますと、厚みを増すことによってボリューム感を満足させていたのです。

櫛は1800年初めに一度大型化し、その後禁令の関係もあって小型化の道をたどります。

1804~18年頃

横長の山高形で、厚さ7.5mm、長さは18~24cm程。初期の山高型に比べると2倍弱ほど大型化しています。

1825年以降

1825年に発令された禁令によって、一気に小型化しました。横長櫛の代表的な型である利休形ですら、横幅12cm程度に収まりました。その分厚みは増し、1cm前後になっています。

1830年以降

ますます小型化し、横幅9cm程、厚み6~9mmが主流になります。形としては従来の月形の変形である半月形や、政子形が横長になった閑清形、新牡丹形といった応用型のデザインが増えてきました。
この後、厚みは1cmを超えるものも多くなりますが、薄型の鼈甲櫛も平行して好まれていたようです。

笄は今までと異なり、角棒状が主流になっていきます。また中差簪と呼ばれる新しい形の笄が流行しました。

平角笄(1789~1830年頃。厚み6~9mm、長さ21~27cm)

棒の中心辺りに鼈甲特有のまだら模様を配置した、切り口が長方形の笄。片端は髪に刺しやすいように角が丸くなっています。

角太笄(1830~48年頃。厚み1~1.2cm、長さは平角笄よりやや短め)

平角形がさらに厚くなり、切り口がほぼ正方形になった笄です。模様も平角形と同じように、中心にまだら模様がありました。

中差簪(1830~)

耳かきを模した頭がついている、一本足の簪のような形状をした笄。略装のときに笄の代わりとして使われました。簪より太く、丸棒形や角太形の片端を耳かき状に彫刻したものです。耳かきは大きくて実用性はなく、完全にデザインでした。

この時期に最も発達して、髪飾りの主役となったのが簪です。素材は鼈甲と銀が中心となりました。鼈甲簪は、耳かき部分も含め、全体的に太く厚くなっていきます。
1825年までは長く大きなものが主流で、25cm以上も珍しくありませんでした。櫛と同じく、禁令の影響で小型化に転じ、後ろ差しが15cm前後に落ち着きます。
江戸中期に発達した琴柱、松葉、紋入形の簪は、江戸後期においても人気のデザインでした。
また、そのほかにもさまざまなデザインが生まれています。

  • 頭付き簪:紋入の鏡部分に花や鳥を象ったもの。
  • 花簪:耳かき部分に、花の彫刻などを飾ったもの。
  • 大耳簪:琴柱や松葉のデザインはそのままに、耳かき部分を太くしたもの。
  • 足先つなぎ簪:二足の先をつなぎ折れにくくした簪。笄のようにも使えました。
  • 差し込み簪:別パーツの飾りを簪本体に通すことで、さまざまなデザインを楽しめるようにした汎用性の高い簪。

幕末から以降の鼈甲装身具

幕末期の鼈甲髪飾りは、基本的には江戸後期の流れをそのまま引き継ぎ、デザインもそれほど変わりませんでした。
小型化が進んだこと、一枚鼈甲で作られた角形の櫛と平形の笄が流行した形跡があるぐらいです。
幕末の鼈甲装身具の傾向は、明治にもつながっていきます。模様のない白甲の人気も、そのまま受け継がれていきました。
注目すべきは、模造鼈甲である擬甲がより発達を遂げ始めたことです。
つまり、この時代以降は素人目には判別できにくい、模造鼈甲でできた装身具の量が格段に増えていきます。骨董品として扱うときには注意すべきです。

卵甲四方張り

明治に流行った擬甲。卵白を型に入れて凝固させ、その周囲に牛爪を張り合わせたものです。無地の鼈甲と見分けがつきませんが、端を透かし見ると張り合わせが見えるとされます。

お園櫛

明治14年頃に流行った、牛爪の擬甲。赤斑のやすい鼈甲櫛として使用されました。名前は歌舞伎芝居の「お園六三」のお園役の役者が、宣伝に一役買ったことからつけられたそうです。

セルロイド

鼈甲によく似た初期のプラスチック。プラスチックは、今でも模造鼈甲として使われることが多くあります。

また、大正時代になり前述した簡易結髪である束髪が主流になりますと、笄は正式な結髪のときにのみ使われるようになりました。櫛は今までと異なり、束髪を固定するために頭の形に合わせて、緩やかなカーブがかかっているのが特徴です。

また西洋から入ってきた貴金属ジュエリーの影響を受けて、従来の鼈甲細工に貴金属や宝石が利用された作品が生まれています。
この頃の鼈甲櫛として有名なものは、以下のとおりです。

金芝山

鼈甲を下地に金やプラチナなど、貴金属を象嵌(ぞうがん:別素材に他の素材をはめ込んで模様を描く技術)した最高級品の鼈甲櫛。

モナカ櫛

薄く作った二枚の貴金属地金を、鼈甲でできた棟にはめ込んだもの。

ノセ文様

鼈甲の櫛に、薄金の文様を鋲(びょう)止めしたもの。

骨董価値のある鼈甲装身具のまとめ

骨董品として扱われる鼈甲装身具は、主に江戸時代から第2次大戦前までにかけてのものです。
しかし、明治以後になると髪型の変化に伴い、鼈甲装身具は次第に高級品として別枠扱いとなり、江戸期に比べると装身具としての発展性を衰退させていきます。
また模造品も増えたために、明治期から戦前までの鼈甲装身具を売買するときには、注意が必要です。
江戸期の鼈甲装身具は現存するものも少なく、貴重な骨董品になるでしょう。

鼈甲装身具まとめ

鼈甲装身具はその種類といい歴史的背景といい、女性の髪型との関係が強いアクセサリーです。
江戸期の日本式結髪文化の盛り上がりとともに発達し、髪型の西洋化とともにジュエリーやアクセサリーに取って代わられました。今では高級な和装用アクセサリーとなっています。
それだけに、骨董品として見たときには、江戸期のものであるかどうか、模造品でないかどうかが、重要な評価基準になることでしょう。
江戸期の鼈甲櫛や笄、簪は、歴史的にも美術的にも非常に価値の高いものです。お持ちなら、ぜひ大切にされてください。
そしてもし買取に出すようなら、鼈甲装身具の骨董的価値を、しっかりと査定できる鑑定士がいる買取業者を選びましょう。