印象派絵画で活躍
小絲 源太郞は、江戸時代から続く料理店の長男として1887年7月13日に生まれた東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)出身の画家です。
洋画家を志し、中学校を卒業後に藤島 武二(ふじしま たけじ)が指導する白馬会駒込研究所に入所、素描を学ぶ傍ら海野 美盛(うんの びせい)に塑像(そぞう)の指導を受けていました。
1906年、東京美術学校西洋画科を志望しましたが、金工科に入学。
1910年に東京美術学校在学中の第4回文展に『魚河岸』を出品し、初入選を果たします。
そして黒田 清輝(くろだ せいき)に認められ、西洋画科へ転科を勧められました。
しかし1911年に金工科を卒業後、改めて西洋画科に入学しましたが、病気を患い休学、そのまま中退しています。
制作活動は続けていましたので、文展での活躍は盛んでした。
1918年の第12回文展初日に、源太郎は自作を破壊する事件を起こし、1925年まで出品活動を自粛します。
また、1922年には糖尿病療養のため、結婚後にアトリエを新築して住んでいた日暮里の家から、池之端の生家に戻っています。
同年9月には日本美術学院より、『小糸源太郎画集明治43年-大正11年』を発行しました。
源太郎は初期こそ『屋根の都』など印象派、後期印象派の影響を受けた画風を展開していましたが、大正期の後半に一時展覧会出品を中止。
再び大正末年に戻って、『獺祭図』、『惜春賦』などの作品を発表しました。
油彩表現に円熟する
昭和初頭、小絲源太郎の官展復帰後の作品は、中国院体画風(写実的で精密)の細密描写による静物画を主としています。
戦後は日展や光風会展、日本国際美術展、現代日本美術展などに出品を続け、『乍雨乍霽』、『山粧ふ』、『団地良夜』など独自の画風を展開しました。
1954年に、前年第2回日本国際美術展出品した『春雪』や、他の風景画により、日本芸術院賞を受け、1959年には日本芸術院会員になっています。
『春雪』は源太郎の代表作で田園調布駅前の並木路を描いています。明快で強い画風で描かれた雪曇りの雰囲気を伝えている作品です。
1960年に財団法人日展理事、翌年には日展常務理事に就任。
1965年には文化勲章を授与。同年に改組日展の発足に際して顧問になっています。随筆も好み『冬の虹』や、『風神雷神』などを刊行しています。