岸田 劉生(きしだ りゅうせい)

岸田劉生『麗子像』

日本一有名な少女『麗子像』の画家 岸田劉生

本格的に絵を描き始めた時期

1891年6月23日、岸田劉生は新聞記者であり、実業家の岸田吟香と勝子の9人兄弟の4男として誕生しました。東京高等師範学校附属の中学校に通っていた時に絵画に興味を持ち始めて、独学で絵を描き始めます。
1905年14歳の時に父親が亡くなりましたが、それがきっかけで1906年には洗礼を受けてキリスト教信者になります。キリスト教徒になったことは、岸田の作品に多大な影響を与えたと言われています。

1908年白馬会葵橋洋画研究所に入り、洋画家の黒田 清輝(くろだ せいき)に師事しながら、絵画を本格的に学び始めます。
1910年の文展には2つの作品が入選、そして1911年ごろには、白樺派の武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)や、柳 宗悦(やなぎ むねよし)、そしてイギリスの陶芸家であるバーナード・リーチなどと親交があったようです。この当時、ヨーロッパで人気があったセザンヌやゴッホなど後期印象派の画家に影響を受けて、彼らの作品に似たものを意図的にたくさん描いています。

結婚と愛娘の誕生の時期

1912年詩人である高村 光太郎(たかむら こうたろう)と画家の萬 鉄五郎(よろず てつごろう)、斉藤 与里(さいとう より)、清宮 彬(せいみや ひとし)らと一緒に美術家集団「フュウザン会」を結成して、展示会にも14点というたくさんの作品を出品しています。しかし1913年には洋画家の斉藤与里との意見の相違が原因で、フュウザン会を解散します。
同年フュウザン会展を見に来ていて知り合った小林蓁(こばやし しげる)と結婚し、翌年の1914年には長女が生まれ美しい娘になってほしいということから麗子と命名します。

1915年現代の美術社の第1回美術展に出品し、その後連続して9回つまり展覧会すべてに出品しています。
1917年には肺結核の疑いがあり、神奈川県藤沢町鵠沼(くげぬま)にある友人の武者小路実篤が住んでいた貸別荘に、療養のためにしばらくの間滞在します。

麗子像を繰り返し描いた時期

1918年ごろからは、娘の麗子の肖像を描き始めるようになり、その一番初めの作品が『麗子五歳之像』です。娘、麗子を描いた作品は50点にもなると言われていて、どれだけ娘の麗子に思い入れがあったのかを推し量ることができます。
1920年ごろからは、岸田を尊敬していた椿 貞雄(つばき さだお)や横堀 角次郎(よこぼり かくじろう)も鵠沼に移ってきます。中には中川 一政(なかがわ かずまさ)のように、門客になるものもいました。結局結核と言うのは誤診だったようですが、鵠沼が気に入り滞在したこの6年間は、岸田にとって画家として一番充実した期間であったようです。

1923年には関東大震災があり、家が全壊してしまったために京都を経て鎌倉に移り住みます。1929年には、南満州鉄道の松方 三郎(まつかた さぶろう)の招待によって大連やハルビンなどに滞在します。そして帰国した後すぐに、胃潰瘍と尿毒症のために逝去します。38歳という若さでした。