金にまつわる歴史の重み!古代から現代まで

金にまつわる歴史の重み!古代から現代まで

世界各地で、古くから愛されてきた金。キラキラと輝くきらびやかな様子に、たくさんの人たちが魅了されてきました。
また、金は美しいだけの金属ではありません。ほかの金属にはない特殊な性質を持っているため、日常生活のさまざまな場面で便利に活用されています。リングやブレスレットなどの宝飾品はもちろん、各種工業用品や投資用アイテムなど…、そのラインナップは非常に幅広いと言えるでしょう。

さて、そんな金には、非常に古い歴史があります。古代文明においても、金は非常に重要な役割を果たしていました。遺跡から発掘された金の宝飾品を見て、古代ロマンに目を輝かせた方は多いのではないでしょうか。
また、金をベースにした経済システムについては、まだまだ記憶に新しいところです。

日本でも世界でも、古くから特別視されてきた金。
今回は、そんな金の歴史に迫ります。現代に至っても謎が多いとされる古代文明や大航海時代の金をめぐる争いや、日本のゴールド・ラッシュなど、金の歴史の流れをわかりやすく紹介しますので、ぜひ最後までご覧ください。

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シュメール文明と金との不思議な関係

現代においても、謎多き文明として知られているシュメール文明。それはチグリス川とユーフラテス川の間にあるメソポタミアにて、シュメール人たちが作り上げた文明です。その繁栄の時期は、なんと紀元前6000年。この時期においてすでに金の存在は知られていて、さらに金を生活に取り入れていたと伝わっています。

シュメール人に関する多数の謎が、現代にまで残っているのですが、そのうちの一つが「優れた天文知識」についてです。なぜ古代人がこれほどまでに優れた天文知識を持ち得たのかは、現代においても謎のままです。

一説には、「シュメール人が信仰していたアナンヌキと呼ばれる神々が、実は宇宙人で、宇宙人との交信によって、シュメール人たちは優れた知識を得ていた」と言われることも。もちろん、この真偽のほどはわかっていません。「シュメール人たちは金を使って各種宝飾品を作り、アナンヌキたちはそれを求めていたのでは?」と考える人もいるようです。

古代と宇宙について語っている、どちらも非常に大きなロマンを感じさせてくれる説ですね。

はっきりしないことが多いシュメール文明ですが、この時期に金の装飾品が作られていたのは事実であり、これが世界最古の金製品だと言われています。紀元前6000年の時代から、すでに人々を魅了していた金。その歴史は、気が遠くなるほど長いと言えそうですね。

トラキアの黄金文明

紀元前5000年から紀元前3000年ごろ、現在のブルガリアにあたる地域に、トラキア人と呼ばれる人々が存在していました。
近辺のペルシャ文明やギリシャ文明と交流しながら、トラキア人は独自の文明を作ってきました。

このトラキア人が作った文明は、「黄金文明」とも呼ばれています
その名前のとおり、トラキア人はさまざまな黄金製品を残しています。

ブルガリアの東部に位置するヴァルナ集団墓地遺跡から、1972年に数キログラムにもおよぶ金製品が出土したことがニュースになりました。

そのなかには、

  • 軍事儀式、宗教儀式に用いられていた「王笏(おうしゃく)」と呼ばれる杖
  • 雄牛を型どった、社会的シンボルとして用いられる「アップリケ」
  • 高度に装飾が施された金の「ネックレス」「イヤリング」「指輪」「胸飾り」「腕輪」「王冠」
  • スフィンクス、鹿、ヤギなどを型どった「リュトン」(儀式などで用いる杯)
  • フィアラ杯(饗宴に用いる皿状の杯)
  • キュリクス杯(取っ手が2つ付いた杯)

といったさまざまな金製品がありました。

さらに、2004年にはトラキア王の黄金の仮面が出土しました。
厚さ3ミリメートル、重量にして672グラムの荘厳なマスクになっています。

この太古の文明において、すでに社会的な身分を表したり、儀式に用いたり、王の権力を示したりと、さまざまな目的で金が用いられていたのです。

トラキアは文字を持たず、戦が好きな文明として知られてきた謎の文明でしたが、非常に高度な金の精錬技術、細工・加工技術まで持っていたということになります。

古代エジプト文明と金

さて次は、古代文明の中でも非常によく知られているエジプト文明についてです。
この文明は紀元前5000年頃からスタートしたと言われていますが、紀元前3000年を迎える頃になると、エジプト王朝が国全体を統一するようになります。この時期には、すでに数多くの金の装飾品が作られていたと言われています。

古代エジプト文明と聞くと、金をイメージする方が多いのではないでしょうか? これは過去の遺跡の発掘において、非常に多くの金製品が出土しているためでしょう。シュメール文明やトラキア文明とは比べ物にならないほど、多くのアイテムが残されていました。

中でも有名なのは、「ツタンカーメン王の黄金マスク」でしょうか。こちらは1922年に発掘されたファラオ(王様)のためのマスクであり、紀元前1300年頃に作られたと言われています。顔だけではなく、胸元まで覆うような豪華なマスクで、頭巾のような形をしており、このスタイルは、「ネメス」と呼ばれています。
この黄金マスクだけで、その価値は300兆円にも上るそうですが、ツタンカーメン王について言えば、金が使われているのはマスクだけではありません。王が眠る棺には110キロもの金が使われており、非常に豪華な造りとなっているのです。

古代エジプト文明において、金製品が重要な意味を持っていた理由は、その信仰にあります。当時の人々が信仰していたのは、太陽神ラーをあがめる太陽信仰です。
太陽信仰において、金はラーの身体の一部とされていました。このため、金は宗教上の非常に重要な意味を持つアイテムであり、祭祀や呪術、王族の儀式には欠かせないものと考えられていたのです。実際に、宗教や王族に関連する場所やアイテムには、数多くの金製品が残されています。

このように、エジプト文明は金と共にあった文明です。その紀元前1600年頃には新王国時代を迎え、優れた技術を持つ金細工師が、確かな社会的地位を獲得していたと伝わっています。

三大黄金マスク

現代に残されている黄金マスクは、ツタンカーメン王のものだけではありません。これに「プスセンネス1世の黄金マスク」と「アメンエムオペト王の黄金マスク」の2つを合わせて、世界3大黄金マスクと呼ばれています。

歴史の長いエジプト文明には、数多くのファラオが存在していました。ファラオの墓には、黄金マスクや装飾品を始め、数多くの至宝が眠っていたはずですが、残念ながらすでに多くの墓が盗掘されています。

なんとか盗掘を逃れて現存しているマスクの1つが「プスセンネス1世の黄金マスク」です。プスセンネス1世は紀元前10世紀頃の古代エジプト第21王朝のファラオであり、大きな影響力を持っていました。

アメンエムオペト王はプスセンネス1世の息子であり、彼の黄金マスクも非常に美しい状態で現存しています。

金のインゴットの始まり

ところで、アニメや映画では金の延べ棒がでてきますよね。
金の延べ棒は、今では純度など厳しい規格を定めた「インゴット」として流通しています。
金のインゴットは、投資家の資産運用や中央銀行の準備金として用いられています。

インゴットは鋳塊という意味があります。つまり、素材そのものを保管するために鋳造した「塊」ということです。
現代のインゴットは、延べ棒というイメージどおりの台形型のものや、名刺のような形のものが存在します。

古代エジプトでは、延べ棒ではなくドーナツ状に型どった塊で保管されていました。
その様子が、「金」を表す象形文字とともに現存する当時の壁画に描かれています。

古代エジプトでも、金そのものが価値を持っていたと考えられるのです。

古代の女性を輝かせる金の首飾り

歴史的な絶世の美女と聞きますと、どんな女性が思い浮かぶでしょうか?
中国では楊貴妃が有名ですが、エジプトではクレオパトラ7世が有名ですよね。

クレオパトラ7世は、ゴージャスな首飾りを身に着けていました。
これは、ウェセクと呼ばれる金などで宝飾された首飾りで、当時は貴婦人が身に着けるものでした。

このウェセクの形を模擬した象形文字があります。この象形文字の意味は、「金」なのです。

金の首飾りが好きなのは、古代人の女性も現代人の女性も同じですね。

漢委奴国王印

中国には「後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)」と呼ばれる、古い資料が現存しています。
この資料は5世紀前半に書かれたとても古いものですが、書かれている事柄はもっと昔の出来事になっています。

そこには紀元57年という大昔のことが書かれています。紀元57年、中国は後漢王朝の時代でした。そのときの初代皇帝は光武帝(こうぶてい)です。
後漢書東夷伝によると、この光武帝が倭(わ)の奴国(なのこく)に印綬(いんじゅ)を授けたというのです。

印綬とは、つまり印鑑です。
これは、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と呼ばれています。
純金製の印鑑で、印文は「漢委奴國王」となっています。

この漢委奴国王印は、1784年に福岡県の志賀島の農民が発掘したといわれています。
この金印は、漢の光武帝から福岡市近辺に当時存在した、奴国の王に授けられたと考えられています。

日本の黄金伝説

日本には、「黄金の国ジパング」という黄金伝説がありますよね。

この黄金伝説のきっかけは、ヴェネツィア共和国の冒険家であるマルコ・ポーロが書いた「東方見聞録」で
書物の内容は、マルコ・ポーロが1271年から1295年に東方諸国で見聞したことを1299年頃にルスティケッロに口述筆記させたとされる旅行記です。

中世アラブでは、東方に金がたくさん眠っているという「ワクワク伝説」が広まっていました。
この「ワクワク」は、かつての日本を表す倭国(わこく)の発音に由来するとも考えられています。

このころ日本は鎌倉時代で、たしかに金がよく採掘されていました。
しかし、マルコ・ポーロがいう国は、本当は日本のことではなかったという説もあります。

まだまだ日本の黄金の国伝説は、謎につつまれたままなのです。

中世ヨーロッパの金細工師と銀行

今の私たちの生活に、なくてはならない銀行。私たちの大切な資産を、安全に保管してくれる場所でもあります。実はそんな銀行の起源には、金と金細工師が深く関わっていると言われています。

中世ヨーロッパでは、金の美しさに魅了される人が多く、さまざまな金細工師がその腕を振るっていました。アンティークに施されている美しい金の装飾には、驚くほど細やかで繊細なものが多くみられます。これらはもちろん、金細工師たちが手作業で、一つひとつ丁寧に仕上げたものなのです。

金細工師の需要は高く、社会における彼らの役割は、歴史の中で少しずつ変化していきました。金細工師をめぐる変化の一つは、彼らが細工技術だけではなく、金の加工技術や保管技術も発展させていったことです。日常的に金を扱う金細工師にとって、「大量の金を安心かつ安全に保管できる技術や場所」が必要不可欠でした。すると世の中には、金を細工する技術ではなく、金を保管する技術のほうに注目する人が増加。自身の手元にある金を、金細工師のもとで、安全に保管してもらおうと考える人が増えたのです。

こうした風習こそが、銀行業の始まりだと言われています。
金を預かった細工師たちは、預かり証を発行。金を預けた人々は、この預かり証を現代の「紙幣」のように使い始めました。一方で細工師たちは、預かった金を誰かに貸したり、それを使って儲けたりするようになりました。このような、現代の銀行業と同じようなシステムが、すでに中世ヨーロッパで機能していたとわかっているのです。

大航海時代の金をめぐる争い

大航海時代には、世界のトレジャーハンターたちが金を追い求めて海を渡りました。
そこには、金をめぐる戦いの歴史と文明の存亡をめぐる歴史があります。

インカ帝国の滅亡

南アメリカのペルーに位置するアンデス山麓は、マチュピチュ遺跡があることで有名ですよね。
このマチュピチュ遺跡は、滅亡したインカ帝国の遺跡として知られています。

インカ帝国は、現在のペルー、ボリビア、エクアドルを中心に、チリ、アルゼンチン、コロンビアの一部にまたがる大きな帝国でした。
しかし、インカ帝国は1533年に滅亡してしまいました。

このインカ帝国の滅亡には、インカ帝国の黄金伝説が深く関係しています。

インカ帝国では、たくさんの金が採掘されていました。
この噂をスペインの軍人、フランシスコ・ピサロが聞きつけました。
ピサロは騎兵隊を引き連れてインカ帝国に近づき、侵略してしまったのです。

当時のインカ帝国の皇帝の名前は、アタワルパ。
ピサロは、アタワルパに友好的なフリをして近づきます。
しかし、最後にはいいがかりをつけて、火砲でインカ帝国を攻撃しました。

この攻撃でたくさんの人々が亡くなりましたが、アタワルパは生け捕りにされました。
最初から、皇帝の身代金として金を要求するつもりだったのです。
結局、132万6539ペソ(およそ6トン)の金がピサロに渡され、皇帝アタワルパは釈放されずに処刑されてしまいました。

このように、大量の金が大帝国を築き上げもし、また滅亡させもするのです。

幻の国エル・ドラード

このインカ帝国の黄金伝説には続きがあります。

スペイン軍によって滅亡させられてしまったインカ帝国ですが、スペイン軍の魔の手から逃げ切ることができた王族が、別の地で王国を建国したというのです。
その伝説の王国は、エル・ドラードと呼ばれています。

「エル・ドラード」はスペイン語で「黄金の人」という意味があります。
エル・ドラードの存在は黄金郷として、ヨーロッパの探検家・トレジャーハンターたちのあいだで噂になっていました。
アマゾンの奥地に存在するのではないか、とも考えられて世界地図にも描かれていたほどその存在が信じられていました。

しかし、1800年代初頭に、探検家で近代地理学の祖とも呼ばれるアレクサンダー・フォン・フンボルトがその地域を調査しました。
調査の結果、エル・ドラードは存在しないことが判明したのです。

300年ものあいだ信じられ続けてきた黄金郷の伝説がついに、噂話であったということで決着がついたのでした。

金と魔術との関係とは?!

金はサビないだけでなく、酸にも溶けず、いつまでも変わらない輝きを保ち続けることができます。
そんな不思議な金には、魔術との関わりがあります。

最後の魔術師

りんごが木から落ちることから万有引力の原理を発見したという逸話で有名なのが、イギリスの物理学者のアイザック・ニュートンです。

経済学者であるジョン・メイナード・ケインズは、ニュートンのことを「最後の魔術師」と呼んでいました。
なぜケインズがこのように呼んでいたのかというと、じつはニュートンは錬金術に熱中していた最後の物理学者といえる存在だったからです。

錬金術

ニュートンが生きていた西暦1700年ごろは、錬金術と呼ばれる学問がありました。
錬金術を研究している人々のことを、錬金術師と呼びます。

錬金術師は、ふつうのよくある金属から、なんとかして金を作り出す方法はないものか試行錯誤していました。
今では、錬金術で研究されていたような方法で金を作ることは、不可能であることがわかっています。
しかし、当時の錬金術師たちはなんとかして、貴重な金を手軽に手に入れられる方法を確立しようとしていたのです。

錬金術は賢者の石を作ることを、最終的な目標としていました。
賢者の石は、金を作りだすだけでなく、人間を不老不死にするものだと考えられていたのです。

錬金術は、当時のイギリスでも禁止されていました。
金が作られてしまいますと、金の価値が下がってしまい、王家の財産の価値が下がってしまうおそれがあったからです。

こうしたオカルト的秘法を、近代物理学を築いたニュートンが行っていたのは意外ですが、錬金術師たちの研究の成果は、今日の化学の発展に大きく貢献しています。

世界の金貨のはじまり

さて、次に紹介するのは、金貨の歴史です。現代社会においても、投資用やコレクター用として、さまざまな金貨が取り引きされています。古代から現代にかけて、金貨は具体的にどのような歴史をたどってきたのでしょうか。

人間の歴史に「貨幣」という考え方が登場したのは、古代文明の時代であったと言われています。古代メソポタミア文明や古代エジプト文明において、穀物や家畜、絹といった商品が、通貨としての役割を担っていました。つまり古代文明の中で、人々はこうした商品をやり取りすることで、経済を回していたと思われます。こうしたタイプの貨幣を、「商品貨幣」と言います。

商品貨幣で物をやり取りするためには、商品そのものを取引の現場に持ち込まなければなりません。大きな物を扱うのは、決して簡単ではなかったでしょう。このため、文明が発展していく中で、徐々に金、銀、銅などの金属を貨幣として扱うようになります。

金属を鋳造して作った貨幣を「鋳造貨幣」と言いますが、その世界最古のものは、紀元前670年頃に使われていた「エレクトロン貨」だと言われています。この頃、トルコ周辺で栄えていたのがリディア王国であり、ここで造られたのがエレクトロン貨です。

エレクトロン貨は、リディア王国内のバクトーロス川からとれた砂金を使って鋳造された金貨の一種です。いわゆる「純金」ではなく、「銀が数%含まれた自然金」を加工したものだと伝わっています。この金貨には刻印が施され、人々の生活を支える役目を担っていたのです。

日本の金貨の歴史

日本最古の貨幣は、和同開珎として知られています。
ですが、エレクトロン貨と違い、これは金貨ではありませんでした。

日本の金貨のはじまりは、鎌倉時代になります。

鎌倉時代

鎌倉時代には、金はまだ鋳造貨幣としては使われていませんでした。
砂金のまま、袋や奉書紙、竹筒に入れて持ち歩いて、取引のときに重さをはかって使われていました。

室町時代

室町時代には、室町幕府は貨幣を鋳造しませんでしたが、明の国から貨幣を輸入して流通させていました。
戦国時代になるとさらに南蛮貿易もさかんになり、貨幣の新しい精錬法が伝えられました。
これによって、全国の大名が鉱山開発を進めるようになりましたので、金がたくさん産出されるようになりました。
その結果、金判がたくさん流通するようになったのです。

安土桃山時代

安土桃山時代には、豐臣秀吉が天下を統一しただけでなく、金判をつくって経済の統一を図りました。
重さにして165グラムもの天正大判が鋳造されるようになりました。これは、世界最大の金貨ともいわれています。
大名や公家の間で、この大判を用いた取引が行われるようになりました。

江戸時代

大判小判
さぁ次はいよいよ、江戸時代です。江戸時代と言えば、徳川家康。彼は天下分け目の戦いで勝利したあとに、貨幣経済をさらに発展させました。

金や銀の貨幣を製造する組織として、家康は「金座」や「銀座」を作り、金貨の通貨単位(両・分・朱という4進法)も制定しました。金貨の品位や重量も統一。当時、主に流通していた「慶長小判」は純度86%、重さ18グラムという基準で造られていました。

また、家康は原料となる金の採掘をさらに発展させるため、フィリピンから鉱山技師を招きました。これにより、日本においても産金精錬技術が向上。より多くの金が産出されるようになり、日本版ゴールド・ラッシュがスタートします。

さて、先ほど紹介した慶長小判の価値は、「1両」です。同じ1両の価値を持つ小判としては、以下のようなものが挙げられます。

・宝永小判
・元禄小判
・正徳小判
・享保小判
・元文小判
・天保小判
・文政小判
・安政小判
・万延小判

「全部が1両では使い勝手が悪いのでは?」と思ってしまう人がいると思いますが、ご安心ください。5両の価値を持つ小判として、「天保五両判」も造られていました。

また、「慶長一分金」や「宝永一分金」「元禄一分金」「甲州一分金」など、角型の通貨も広く流通していました。一文金は、1両の4分の1の価値を持つ通貨で、2分の1の価値を持つ二分金(「安政二分金」「文政二分金」「万延二分金」など)も存在しています。
大きな価値を持つ小判から、小さな価値を持つ一分金まで、バリエーションが豊富なほうが、使い勝手は良いもの。日本ならではの単位によって、通貨の種類が徐々に定まっていった時代です。

明治時代

明治時代には、日本銀行が設置されました。日本銀行は、現在でも中央銀行としての役割を果たしています。
こうした現代的な金融制度は、明治時代に海外のシステムをまねして取り入れたものです。

明治4年という早い段階で、金融システムに関する法律の整備が行われました。
「新貨条例」が発布され、これを機に国内では金本位制が敷かれました。

制度だけではなく、香港が造幣局で用いていた設備も積極的に取り入れました。
この当時大阪に設置された造幣局は、現在でも活躍しています。
現在では硬貨の製造だけでなく、地金の分析試験や品位証明などの事業も行っています。

貨幣単位も両・分・朱という伝統的な単位を廃止し、「円」にしました。
この当時は二十円、五円、十円、一円といった単位の金貨が作られました。
現在の日本円とほとんど変わらないシステムが、この明治にできあがったのです。

制度や通貨単位だけでなく、通貨の形も西洋式に合わせました。
海外の貨幣は基本的には丸いコインの形をしていますので、日本の通貨もそれをまねて小判形ではなくコイン形に統一しました。

大正時代

大正時代になりますと、日本は金本位制を採用しなくなりましたので、不換紙幣が発行されるようになりました。
つまり、実物として価値のある金貨や銀貨などの本位貨幣も発行しなくなりましたし、本位貨幣との交換が保証されている兌換(だかん)紙幣も発行しなくなりました。

この頃から、金以外の金属が信用貨幣の材料に用いられるようになりました。
大正時代以降、1銭銅貨、5銭ニッケル貨、10銭アルミ貨、10銭ニッケル貨、50銭黄銅貨、50銭銀貨がつくられました。
(いまでもお財布にある1円玉、5円玉、10円玉、50円玉、100円玉、500円玉はアルミ、銅、亜鉛、ニッケルなどがメインの材料になっています。)

幕末に起きた通貨問題

さきほどご紹介しましたとおり、江戸時代では金でできた小判が貨幣の役割を果たしていました。
そんな時代の1858年、日本とアメリカは日米修好通商条約を結びました。
このころの日本は安政5年、幕末の時期にあたります。

ペリーが率いる黒船が来航したのが1853年のころですので、日本が海外との交流を広がり始めた時期になります。

この日米修好通商条約で、日本の通貨はハイパーインフレーションを起こしてしまいました。
じつは、この通貨危機に関係しているのが金なのです。

江戸時代は、金や銀を通貨として用いていました。
江戸中期までは、日本は銀安の状態で、金が流入してくる経済構造になっていました。

ところが、日米修好通商条約によって、外国の銀貨と日本の金の小判との交換比率が不平等であったために、日本からどんどん金が流出していくことになりました。
外国商人たちにとっては、日米修好通商条約によって、通貨を日本と交換するだけで儲かるような仕組みになったのです。

これに対して、金が大量に流出しまうことを防ぐため、幕府は万延小判を発行しました。
万延小判は低品位の金を使っています。こうすることで金の海外への流出がくいとめられましたが、そのかわり国内では貨幣価値が低下しました。

低品位の小判が流通することで貨幣価値が下がりますと、物価が上昇します。
金が流出すればするほど、低品位の小判が流通することになります。
こうしてどんどん物価が上昇して、ハイパーインフレーションとも呼べる状態になってしまいました。

物価が高騰するということは、物を買うことができなくなる民衆が増えるということです。
民衆の生活がたいへん苦しくなったことは想像に難くありません。

こうした金をめぐる通貨戦争が、幕末には起こっていたのです。

20世紀以降の金と通貨の関係

かつては世界的に、金が貨幣として用いられてきました。
また、金でできた貨幣のかわりに紙幣が流通していましたが、こうした紙幣は必ず金との交換が保証されていました。

こうした制度は、金本位制と呼ばれています。
金本位制のはじまりは、1816年のイギリスの1ポンド金貨の鋳造であるといわれています。

1919年にアメリカが金本位制をとってから、世界的にも金本位制をとる国が増えました。
しかし、アメリカから発生した1929年の世界大恐慌をきっかけに、再び金本位制を採用する国は減り、1937年にはすべての国が金本位制を中止しました。

しかし、当時まだ通貨と金との交換は、完全に切り離されたわけではありません。
1945年にはブレトン・ウッズ体制という、経済の仕組みが出来上がりました。

これは、金ドル本位制とも呼ばれ、1オンスの金を35USドルと交換できることを保証するという体制です。
世界の中央銀行も協力しながら金プール協定などを結び、金の価格を安定化するように努めました。

しかしアメリカには、金との交換比率にしばられないで貨幣を発行したいという意向もありました。
そして結局、1971年に、ニクソン・ショックと呼ばれる出来事が起こりました。

ニクソン・ショックは、金とドルとの交換比率を固定することを止めるという宣言です。
こうしてブレトン・ウッズ体制が崩壊しました。

とはいえ、まだ各国の中央銀行は、準備金として金を保有しています。
金が世界経済にとって、重要な資産であることには変わりないのです。

まとめ

長くなりましたが、紀元前6000年から西暦2000年までの、約8000年分の人と金の歴史について解説してきました。タイムスリップ気分を、味わっていただけたのではないでしょうか。
これまで、歴史の授業で習ってきたさまざまな出来事にも、金は深く関わっています。人類にとって金とは、昔も今も変わらない、非常に価値のある宝物だと言えるでしょう。

今回は、古代文明から金の歴史を紹介してきましたが、もちろん今でも、歴史の謎のすべてが解明されているわけではありません。私たちがまだ気付いていないだけで、「幻の黄金文明」や「黄金の国」が存在しているという可能性も、十分にあるでしょう。これらは非常にロマンのある話です。

さて、金の歴史をたどってみると、その使われ方やそれを保有する意味は、時代と共に少しずつ移り変わってきています。人と金の歴史は、これから先も続いていくもの。緩やかな変化が、今後も続いていくでしょう。

・自身を着飾る宝飾品として
・自身の財産を示すためのアイテムとして
・自身の身分や権力を象徴するためのアイテムとして

上記のような基本的な価値は変わらないものの、投資信託商品や地金型金貨など、現代ならではの価値を持つ商品が多く登場しています。金に魅了された人類が、これから先どのような金製品を生み出すのか、楽しみにしたいところです。

太陽信仰のために金を身に付けるということはなくなっても、「金のジュエリーを身に付けると自信を持てる」と思う方は多いのではないでしょうか。
また、金貨として流通する金はなくなっても、金のインゴットを保有する方はたくさんいます。

8000年の長い歴史の中で、変わっていくものもあれば変わらないものもあったはずです。これから先も、まだまだ金の歴史は続いていくでしょう。

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水野 崇さん
(CFP/1級FP技能士)

キャリア20年超の株式トレーダー。講師、取材協力など多方面で活躍する独立系ファイナンシャルプランナー。大学や事業法人で講師を務め「金融リテラシー講義」を毎週行う学校法人専門学校非常勤講師。

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